思いつき短編小説

自分時計

めりねこ

青空

"今を何かに例えるなら針を無くした時計"
"明日を何かに例えるなら何も書かれていない本"
このフレーズが何故か今も頭の中に残ってる。
何処で聞いたのだろうか。誰に聞いたんだろう。
仕事場への道を人ごみに飲まれながらそんな事を考えていた。
仕事場には気の良い仲間と自分の望んだ仕事があった。
でも何でだろう。最近、不思議な事を考えてしまう事があるんだ。

別に勤務態度が悪いとか、遅刻欠席が多いとか、そういう事でもない。
現状に不満があるわけでもない。しかし、それは頭の中にかかった靄(もや)の如く留まっていた。
人は言う。それは誰でも一度は経験する、一種の精神病なのだと。決められたルールを遵守していくなかで起こる、一つのエラーなのだと。

でも初めての自分の中のエラーをどうすれば良いのかわからない。けれど自分の中の物を人に聞くなんて事もできなかった。
こんなのは初めてだ。大袈裟に言えば、赤信号を見てすぐにでも渡ってしまいそうな感覚にも思える。
大丈夫だ! うん、きっとなんとかなるよ!
また自分に言い聞かせて今日を過ごしてしまおうとしている。弱いのか、強いのかわからないやせ我慢は自分をどんどん追い詰めた。

土曜日。
昨日も遅くまで残業をしていたおかげで、起きたのは昼過ぎだった。カーテン越しの世界は、既に動き始めている。しかし、今日と明日だけは、その流れに飲み込まれる必要はない。ただじっと自分の中の時間を過ごすだけでよかった。
居間の時計がカチカチと音を立てて時を刻む。それをぼうっと見る。自分は何もせずとも、世界の時間は進む。今日は何もしなくていいのに、時間だけは進む。その事が、何故か不思議と癪だった。

何故だろう。大きな舞台で何もできない木の役の様な感覚だ。
その時、またあの感覚が。何をしても許されてしまいそうな感覚だ。
自分の中のエラーは大きく膨らみ続けた。
気が付けば、うるさい時計を壁へと投げつけていた。壊れてしまったのか、時計は大きな音をたてて鳴り続けた。
どうしてしまったんだろ。こんなの自分じゃない。頭を抱えて悩む事は何でこんな風に考えてしまうのか。
"自分はこの広い世の中で小さくまとまって生きていくだけなのか?"
うるさい! 止まれ! と何度も時計を踏みつけ投げつけた。
気が付けば壊れているのは時計ではなく自分だと気づいた。
何も考えたくない。何もしたくない。でもどうしたいんだろう。矛盾と矛盾がぶつかり合ってなんどもエラーを起こした。

頭を後ろに反らし、冷静になるよう自分に言い聞かせる。落ち着け。何も考えちゃだめだ。落ち着いて今まで通りの生活に戻ろう。
幾分か落ち着きを取り戻し、足元の時計の残骸を片付ける事にした。
時計の針はでたらめな方向に向き、もう時を刻まない。辺りにはそれらを構成していた歯車が散らばっている。その一つを手にとって、じっと見つめた。
その歯車は美しかった。凹凸の一つ一つは、傷ひとつなくその形を留めている。中央から放射状の溝が延びていて、その先は丸く切り抜かれている。それが機能上、どういう役目を果たしているのかは、定かではない。ただ、美しかった。

僕も目立たない部分で美しさを保てているのだろうか。そんな事ばかりに夢中になり足で破片を踏み血だらけになっている事すら気にもならなかった。
君みたいに美しく自分を保てるんだい? 毎日同じの繰り返しで退屈には思わないのか?
歯車に問いかけた質問の答えを知るすべは何処にも無かった。
考えた。この大きな世の中の流れの中で自分はどうするべきなのかを。そこ等にいる人間のように生きても輝いていける事は歯車を見てわかった。
だけど僕にはそんな生き方はできるのだろうか。歯車の次は自分に問いかける。答えは自分で考えなきゃならないのに。
おかしかったのかもしれない。苦しかったのかもしれない。
なんの味気もない落ち着いた場所が僕を繋ぎとめていると考える事が。普通だと思っていた自分が一番普通では無かったのかもしれない。
そんな考えの中、あるフレーズが頭をまたよぎった。

"今を何かに例えるなら針を無くした時計"
そうなのだ。つまりは、そういうことだったのだ。
自分は世界を構成する、歯車のひとつでしか無いのかもしれない。しかし、世界の流れを刻む針は、無いのだ。
自分は世界を構成する、歯車のひとつでしか無いのかもしれない。しかし、自分には、自分の中の時計があったのだ。世界と同期させる必要も無ければ、意味も理由も無い、自分だけの時計が。

"明日を何かに例えるなら何も書かれていない本"
自分だけの時計と自分だけの考えがあれば良いんだ。
何も書かれていないのなら自分で書けば良い。きっとそう思ったからこれが頭から離れなかったんだ。
僕は手に入れるんだ。自分が決めた時間とこれから僕自身のために始まる明日を。
どうすれば、そのためには僕はどうすれば良いんだ。
そうだ。まずは0から始める必要があるんじゃないか?
こんな腐った環境では何も始まらない
0にしてからだ! すべてが始まるのは!
そういうと彼は自分の手で喉を絞め、最後には自分で舌を噛み千切った。
何も無い本と時を刻まない時計をエラーする自分の頭の中に描いて。

おわり